教養とは分断を認識する力である

アメリカは自由の国」という神話

日本の文化に対する意見なんかを眺めると、「電車内で電話さえしちゃいけない日本は堅苦しい」とか「日本で知らない人に声をかけたら気味悪がられるのが嫌だ」とか「目上の人には敬語を使って媚びないといけないのがめんどくさい」といったような考えを持つ人が一定数いることはみなさんご存知でしょう。私の経験から踏まえて、多くの人が「日本人は周囲を気にしてばかりである」と思っているようです。そして、その次に話題に上がるのは「アメリカなどの外国ならこんなこと気にしなくていいのに」という話です。もちろんそれはそうですが、あなたが既に察しているように、アメリカはアメリカでめんどくさいことがたくさんあり、アメリカ人も案外周囲の人のことを気にしているものです。

私はアメリカについて偉そうに語れるほどアメリカに関する知識があるわけではないですし、一言に「アメリカ」と言っても州によって文化が全然異なるのですが、アメリカでは人種の違いや宗教の違いや性自認の違い、政治に関する意見などは日本国内よりもはるかに重大な事柄として扱われているようです。日本国内では白人と黒人の違いなどほとんど考えずに生活できますし、多くの人が無宗教なので多くの飲食店はハラルフードやベジタリアン向けの料理に関して思い煩わなくていいし、自己紹介で自分の性自認(私のことをHeと呼ぶかTheyと呼ぶかなど)を伝えることはまずありません。もちろんこれら三つはマイノリティを守るために大切なことなのでしょうが、日本で生きてきた私にとってはかなり面倒臭い文化です(初対面の人と会ったときにそれぞれの顔と名前だけじゃなくて性自認まで紹介されるとそれだけ覚えることは多くなりますよね)。
これら三つのトピックの重要性は日本人でも分かると思いますが、例えばカトリック教会とプロテスタント教会の違いを知っている日本人は多くないでしょう。これらは日本人にとっては「教養」で、アメリカでは「常識」とされる知識だと思います。アメリカに旅行してプロテスタント系のクリスチャンに「天国に行くために、あなたは日々良い行いをされているんですか?」などと質問すると、嫌な顔をされることがあるということです。面倒臭いですね。ちなみにカトリック教会やプロテスタント教会の中でも宗派はめちゃくちゃ分かれています。逆に、日本では「令和の時代なのにこの人は時代遅れな考えをしている」と時々話す人がいますがアメリカでは令和かどうかによる時代の分断は存在しないわけです。
要するに、この世界は「電車内で電話していいと思う人vs思わない人」「歳上には敬語を使うべきだと思う人vs思わない人」「ヴィーガンvsヴィーガンじゃない人」「平成vs令和」などの境界線で無数に細分化されており(もちろん必ずしも二項対立では無いですが)、ある集団の中であまり意識されていない境界線は「教養」とされ、ある集団の多くの人間に意識されているものは「常識」とされるということです。他にも、マナーと呼ばれているものは、教養と常識の間にあり、価値観と呼ばれるものは教養よりもさらに細分化されているものと捉えています。つまり、価値観や教養やマナーそして常識(はたまた本能や法律?)は全て同質のものであってそれらの違いは各境界線を認識している個体の多さの程度によるもので、価値観 < 教養 < マナー < 常識 (< 本能) といった順序尺度が考えられるという話です。(尺度はもっと細かくすることも可能です)
一番多くの人に合意されている境界線は国境あたりでしょうか。ある程度知能のある動物の間で一番合意されている境界線は「生と死」ですかね。

 

教養があるとは

私が幼い頃は、「みんな同じ地球に住んでるんだから仲良くすれば良いじゃーん」と思っていましたが、教育を受けるにつれてそんなことを言っていられない事情が明らかになってきました。一般的な日本人の集団を考えた時、「地球は一つの惑星だから国境なんて存在しないぜ」と言って勝手に国境を越える人は犯罪者だし、「アメリカ出身だから敬語知らねぇぜ」と言って目上の人に敬語を使わない人は常識知らずで、寝癖がついたまま採用面接を受ける人はマナーがなっていなくて、日本の有名な文学作品を全然知らない人は教養が無いとされることでしょう。
価値観に関しては、どれが良いとか悪いとか一般に言えることではないのですが、世の中には他人の価値観を理解しようとせずにズカズカと人のテリトリーに入り込んでくる人がいます。これは国境を無視して勝手に入国する犯罪者のようなもので、教養のない人には他人の価値観を形成する境界線が見えておらず、その人が自分勝手に引いた境界線ばかりで世界地図を形成していると言えるでしょう。
太宰治の「正義と微笑」という小説に、「学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。」という一節がありますが、教養のない人が他人の価値観を無視するという先ほどの話と似ていますね。
つまり、教養を身につけるというのはより多くの分断に対して自覚的になるということであり、教養があるとは多くの価値観やマナーや常識を認識していることなのです。

ちなみにですが、「他人に自分の価値観を押し付ける人は間違っている」という意見はそれ自体が相対主義に依拠した価値観を人に押し付けていることになるので矛盾しています。寛容のパラドックスで出てくる話ですね。これは教養でしょうか、それとも雑学でしょうか、はたまた常識でしょうか。議論する意義はありませんが。

 

結局何が言いたいのさ

私は教養を身につけるというのはより多くの分断に対して自覚的になるということであると先述しましたが、だからと言って「より多くの教養を身につけてより多くの分断を知り、その知識を持って他人により優しくするべきである」とは思いません。例えばあなたが教養を身につけることによってヘルプマークの意味やHSPやギフテッドの方の存在、飲み会での食事マナー、部下に嫌がられない接し方、女性のエスコートの仕方などが分かり、より人に優しくできるようになるかもしれませんが、それらの知識によってあなたの行動が制限されるべきではありません。女嫌いなのに女性をエスコートし、仕事終わりでクタクタなのにこれからハイキングに行こうとしている老人に電車の座席を譲り、理不尽な客に暴力を振るわれても客の機嫌を取り続ける生活を苦痛に感じる人は多いと思います。

したがって、多くの既存の境界線・知識を学んだからと言ってそれらを守る必要はないのです。女嫌いなら女性のエスコートなんか無視して女の子を車道側に歩かせ続けても良いし、疲れていてどうしても座りたいなら老人に席を譲らなくても良いし、理不尽な客を暴力で黙らせても良いし、捕まっても気にしないなら国境を無断で反復横跳びしても良いということです。自分の価値観を形成する境界線はただ自分で引けば良いのです。教養なんてのはあくまでも自分の認知の可能性に関するものに過ぎず、他の境界線をどれだけ細かく見られるかという視力のようなものなのですから、自分の価値観の境界線を引く際に他の境界線を考慮するかどうかは全てあなた次第であり、あなたが引いた境界線に賛同する人が多ければそれはやがて新たな教養やマナー、常識と呼ばれることになるでしょう。